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その他

呪殺・アングラ・68年の思想(インタビュー記事)

By 2017年7月3日7月 26th, 2017No Comments

【連載】ラジカルチャー入門講座 第30回 (ホスト・伊達政保)

呪殺・アングラ・68年の思想

    ゲスト・上杉清文(僧侶・劇作家・福神研究所所長) ①

                                 構成/高崎俊夫

 

  なぜ、経産省前テント広場で

  「呪殺祈祷僧団」の月例祈祷会を始めたか

 

伊達 ご無沙汰しています。上杉清文さんとはこれまで長い付き合いなんですが、今回、経産省前のてんとひろばで「呪殺祈祷僧団四十七士」による月例祈祷会というのを始めましたよね。あれは、どういう経緯で始めたんですか。

上杉 春秋社から『シリーズ日蓮』が全五巻で出ているんですよ。で、『現代世界と日蓮』という第五巻が仏教学者の末木文美士さんと私が責任編集者になっているんです。末木さんが本文と終章を書いて、序章を責任編集だから上杉さんが書いてくれと言われたんです。その際に上杉さんは学術論文を書くひとじゃないので、めちゃくちゃなことを書いてくれと言われましてね(笑)。それで、私は一九六八年に絞って、「1968年の思想と立正安国」というのを書いたんです。その中でいろんなものがあるんですけれど、宗教学者が六八年の思想に関係したというのは丸山照雄さんとか梅原正紀さんが若干書かれていますが、一九七〇年に「公害企業主呪殺祈祷僧団」というのがありまして、丸山さんや梅原さんが四日市ぜんそくの発生地となった四日市コンビナートとか全国各地のいろんな公害が起きた場所に行きまして、加害企業を訪れて呪殺祈祷を行ったんですね。私が住んでいる富士市でもヘドロ公害の大昭和製紙があって、排水溝の近くの河川敷みたいなところで、やはり呪殺祈祷をやったんですけど、そのなかでいろんな問題が起きたんですね。で、ちょうどその時に革新市長が出て、たぶん、全国の革新市長会のトップになったのが富士市の市長で、うちの檀家なんです。社会党系の人なんですけど反公害運動は反動とよばれる、甲田壽彦さんという人が組織した運動があって、由比とか蒲原とかの漁民の人たちが中心になって駿河湾を漁船で埋めたりしたんですね。駿河湾は桜エビが採れるんですね。あれは、黒潮と富士山の地下水がぶつかったところでしか生息しない特殊なエビで、その研究をしていたのが中沢新一のお爺さんの中沢毅一さん。中沢さんについては後に荒俣宏さんが『大東亜科学綺譚』で書くんですけど、由比に中沢さんのいた海洋生物研究所があったんですね。中沢毅一さんは沼津の御用邸で天皇にご進講したり、最後には進化論を否定して東大を追放されたりしたらしいんですけど(笑)、それはおいといて、富士山麓ってお寺がいっぱいあるんですけど、宗教者がそういう特殊な桜エビも採れなくなるという公害の場所で、全然、反公害の行動をしないということを甲田さんが書いている文章があるんですね。でも呪殺祈祷僧団が富士にも来ていたということがありまして、それが四十年以上前ですけど、そのことを「1968年の思想と立正安国」で、私が検証しました。で、結論から言いますと、現在、三・一一の東日本大震災があって、これはヘドロじゃなくて放射能ですよね。そこで反原発の聖地である経産省前テントひろばで、津波と地震と原発事故によって明らかにされた国の無謀な原子力行政に抗議し、死者による裁きを神仏に懇請し祈念しようということです。今回、一緒にやっているのは前衛短歌の歌人である福島泰樹さんです。福島さんは法華宗で、私は日蓮宗なんで、宗派は違うんですけどね。で、『シリーズ日蓮』全五巻が完結としたときの出版記念会があって、その時になんか面白いことを言わなきゃいけないと思い、乃木坂46とAKB48がいるから、呪殺祈祷僧団の頭文字を取ってJKS47っていうのを作って、ゆくゆくは合同公演しよう、なんて馬鹿なことを言っていたんですけど(笑)。

 

安倍政権退陣、原発再稼働阻止の

政治的なスローガンを強く打ち出す

 

──あはは、それはおかしいですね。

上杉 で、ちょうどその時に、福島泰樹さんが隣の席に座っていて、やろうよという話になって、その日に、ゴールデン街に行った時に、とにかく早くやろうっていう感じになり、声をかけて始まることになりまして、八月二七日に最初にやったんです。

伊達 それは去年(二〇一五年)のね。

上杉 そうです。その時に予想されていたことではあったんですが、トラブルがありまして、再開したのが次の年の三月一一日で、それ以後、毎月やっていますが、この間は十二月十五日で、討ち入りということで。

伊達 まさに忠臣蔵ですね(笑)。

上杉 いちおう四十七士ですから、忠臣蔵を意識して(笑)。それで毎月、経産省前のテントひろばでやっていて、そこに伊達さんとかいろいろな人が応援に駆けつけてくださっているということで、続けているんですけど。四十年以上前の「公害企業主呪殺祈祷僧団」の人たちの仕事については、丸山照雄さんも梅原正紀さんも亡くなっちゃたんで、そのリーダーをやっていた松下隆洪さんという方がいらっしゃるんですね。私よりもちょっと上なんですけど、当時、どういう反応があったかをお聞きして、一応、そういうことも考慮しつつやろうと思ったんですけど、松下さんとお話しする中で、今回やるんなら、前の「公害企業主呪殺祈祷僧団」とは別にして、上杉さんはどうせお芝居なんかをやっているんだから、そういう感じで好きなようにやってくださいという話になったんですよね(笑)。前の「公害企業主呪殺祈祷僧団」の時には基本的に松下さんが真言宗の不動明王を勧請して護摩壇でやっていたんですけど、僕らは法華宗や日蓮宗なので、法華経を唱えるという形でやっているんですね。

伊達 それで、今回、面白いのは安倍政権退陣とか原発再稼働阻止とか、わりと政治スローガン的な方向性をバーッと出しているじゃないですか。それと呪殺祈祷僧団ということがあって、その最初のトラブルっていうのをもうちょっと詳しく聞きたいんだけども、いかがですか(笑)。

上杉 うーん、実際に宗門の中のトラブルがあって、実害をこうむった方がいたり、私ともう一人が注意勧告されたりしているんですよね。でもこうなったら、どこまでやると次にどういう反応がくるのかなっていうのを楽しみにしている部分もあるんですけど、ただ、日蓮宗の中にはこういう人たちには厳罰措置を下したほうがいいと意見をする人とかね。

──そういうひとがいるんですか(笑)。

上杉 いろいろあるんですよ。実際には今年の三月以降は、直接には何も言ってこないんですよ。ただ、なんとなく目を合わせないようにするとか現実的にはいろいろあって(笑)、いま、一緒にやってくださっている方は、全然気にしない方ばっかりなんで(笑)。もともと私の発想は、日蓮宗であるとか何宗であるとか既存の教団とは関係なく、参加している人は全然別の新たな僧団としてのコスチュームを身にまとって、坊さんとか作家とかは別にして僧団の構成員として、同じスタイルでやろうということです。ただ、四十七士と名乗ると四十七人の坊さんが集まるっていうイメージがあって、全然人数が増えないじゃないかって言われるんだけど(笑)。一緒に参加しているのはカメラマンだったり編集者だったりするんですが、同じ志で仏教のサンガ、共同体を作るみたいな形でやっているんで、私としては早く新しいコスチュームプレイがしたいんですけど、いろいろやってみて、そういう方向になるといいなと思っているんですけどね。

伊達 最初から参加してみて思ったのは、〈呪殺〉という言葉がバーッと独り歩きしちゃったんですよね。で、実際の中身はすごい上杉さんには珍しいと言っちゃあ変だけど(笑)、わりと政治的行動と主張じゃないですか。各仏教界でも戦争法の廃棄は当然だし、原発の再稼働阻止は当然だし、それが主流の発想になっているわけだけれども、呪殺という言葉がついたとたんにみんなわらわらとなってしまう。だからその政治的主張がわりと知られてくるようになったら、ああそういうことなのかって一般にもわかるんだけど。

上杉 四十年前の時は、「公害企業のトップを呪殺する祈祷僧団」だったんです。それを私が「呪殺祈祷僧団」としたんですが、前にやっていた人たちも当然、いろいろとトラブったんですよ。公害企業主といえども、仏教者が呪殺なんてしていいのかって。マスコミ的なメッセージは梅原正紀さんがやっていたんで、梅原さんはもう海千山千ですからね。丸山照雄さんも評論活動をやっていた方ですが、結局、引っかかっていた問題は同じなんですね。つまり呪殺という言葉だけに焦点が当たるという。当然、経産省でも安倍政権でもそうなんですけど、社会悪を裁くということなんで、みんな呪殺の対象になっているわけです。

伊達 なるほどね。

 

歌って踊って呪殺する

神仏が発動するという感覚をどう伝えるか

 

── これは具体的には法華経を読むわけですか。

上杉 前にやっていた方々は、護摩壇で真言の祈祷をやるんですけど、法華経を読んだり、歩く時は、お題目を唱えたり、いろんな宗教スタイルを取り入れてミックスしてやっていたんですね。私たちも読経は法華経なんですけど、皆さんもどうぞ、ご一緒にというふうにしてやっているんですけど、最初は面白い、ヘンなことをやっているぞということで取材が来たんですけど、毎回、同じようなことをやっているんで、取材も来なくなったわけですね(笑)。最初の八月二十七日には、声をかけたら、『SPA!』とか色んな雑誌が来て、それが話題を呼んだんですけど、今は逆に記録をちゃんと残しておかないとまずいということで、足立正生さんに撮ってもらっているような状況なんです。

伊達 そうそうたるメンバーですね。足立さんはいるわ、秋山道男さんはいるわ、末井昭さんはいるわ、なんと山崎春美さんはいるわっていうね。

上杉 どんどんハードルを高くしていったほうがいいと思ったりするんで(笑)。今は定例祈祷会という形になってしまっていますので、最初は歌って、踊って、呪殺するというふうに言っていたんですけど、仏教系のメディアの人が取材に来たら、歌って踊ってなかったって書かれたことがあって、最初は内部でも、歌ったり踊ったりするのは不謹慎だとかね。ふざけていると思われるとかいろいろ議論があったんですけどね。結局、私も芝居をやっている人間だし、映画をやっている方もいらっしゃるし、当然、いろんな試みをしたいと思っています。

伊達 僕は、ずっと昔、あれは一九七三年の七月三十一日だった思うけど、外務相の前でね、平岡正明さんや朝倉喬司さんたちと僕らがロペス闘争っていう、ミクロネシアから来たダニエル・ロペスのお父さんたちがボナペに義勇軍で戦死したんで遺族補償という格好で外務省と交渉してたときに、日本軍の義勇兵として死んだボナペの人たちの葬儀を外務省前でやったんですよ。その時に上杉さんが導師としてやっていたんです。それが僕が上杉さんと会った最初なんですよ。

上杉 そうなんだ。でも、「全日本冷やし中華愛好会」のお葬式もやりましたけど、その時も会ってますよね。

伊達 でも七三年だからそのずっと前ですよ。ボナペ義勇兵の十七柱の慰霊をやって、それからいろいろ始まるんですけど、そのちょっと前に歌劇団天象儀館ですか。その時に上杉さんと平岡さんが出会うんですよね。それで、声をかけてお坊さんだからやってくれという話になった。

上杉 ただ、呪殺という言葉自体が辞書に出てこない言葉だし、小説でも呪殺という言葉を使っているのは直木三十五の『南国太平記』だとか隆慶一郎の『風の呪殺陣』とか二、三作品しかないんですよ。

──ほう、そうなんですか。

上杉 呪殺という言葉を使っているのはほとんどないんです。言葉として強すぎるし、殺人という風にとらえられるので、敵を倒す手段として祈るということなんだけど、今の人は呪殺というと、人間が人間を殺すというふうな意味にしか思われない。神仏が発動するっていう感覚は具体的によくわからないというのがあって、結局たんなる殺人ととられてしまってミもフタもない。でもあんまり説明すると言い訳みたいになって格好悪いんでね(笑)。だから私たちは神仏にお願いをして裁いていただくということなんですけどね。

伊達 イエスキリストでいえば「復讐するは我れにあり」というあれと一緒ですね。

上杉 それは祈りが通じるかどうかという問題にもなるんですけど。

 

一九六八年に発見の会の研究生になり、

10・8羽田闘争に参加する

 

伊達 それで政治性の問題に入って、ここから上杉さんの過去の話にドーンと戻りますけど、この際、上杉さんにはちゃんと聞いておきたいんだけど、一九六七年の10・8の羽田闘争、弁天橋にいたという話を聞いているんですが、どういう経過でそこにいたんですか。たしか当時は、発見の会の研究生だったと思うんですが。

上杉 多分、私が発見の会に入ったのは六七年の七月なんですね。研究生だった私と内山豊三郎君が共同で書いた「何処か彼方処かはたまた何処か」を公演したのが十一月十日なんですけど、その稽古をしてたんですが、その頃、友達が早稲田の近所に下宿してて、そこの人たちが早稲田の集会に行ったりしていたんです。僕はあまり党派とか気にしていないほうなんで、あれは革マルかアナキストのグループだったのかな。発見の会には立教の劇研や映研の人たちが来ていて、大島渚の『日本春歌考』に出ていた岩淵孝治君とかそういう友達関係で行ったんだと思いますけど。だからデモに突然行ったというわけではなかったんですけどね。そういうことがあるから行こうっていう話になって友達の下宿にみんな泊まって早稲田に行ってそこから羽田・弁天橋に行ったんだと思うんですね。ただ、瓜生良介さんには評判悪かったみたいですね。

伊達 帰って来てから瓜生さんに怒られたという話を聞いたことがあるんですけど。

上杉 「稽古にも来ないで、何やってんだ、お前ら」って言われて、「デモのほうが稽古より面白いんで、デモに行きました」って言ったんですけど(笑)。でもそんなに私は頻繁に行ったわけでもなくて、最初に集会に行ったのは大学に入ってすぐ、ベトナム反戦とかで日比谷に行った時に、僕は学生服を着て行って仏教学部なんですよ。バッジに仏と書いてあったから、デモに来た人たちに「仏文科ですか?」って聞かれて。仏教学部て恥ずかしくて、「はい、そうです」って答えて(笑)。

──あははは(笑)。

上杉 あと、新劇人反戦集会を日比谷でやった時も、僕が、台本を書いてコントをやったこともあるんで、羽田に行ったというのも時の流れっていうか(笑)。

伊達 平岡さんから聞いたんだけど、上杉さんは、あの時、ピンクのタイツをはいていったそうですね。

上杉 僕はね、芝居をやっているんで、なんか普通のかっこうをしていくのがやだったっていう(笑)、バッケットシューズを金色に染めたり、紫色のシャツを着たり、グリーンのマフラーをまくとかそういう派手な格好をしていったら、スクラムを組む時に隣の人に腕組むのをいやがられたり(笑)、それはみんな別にお芝居をしているわけじゃあなくて、真剣なんで、ふざけてると思われたっていうのはありましたけど。

伊達 あの弁天橋の突撃で、異様な人たちがいるっていう話になってましたよ。

──仏教学部というと大学はどちらだったんですか。

上杉 僕は実家の寺が日蓮宗なんで立正大学なんです。ただ立正大学は当時、私の記憶の中では日本のマルクスと言われた岩田弘さんがいて、静大から浅田光輝さんが来て、たしか清水多吉さんが助手になったぐらいで、フランクフルト学派の学者が集まっていたんですね。好村富士彦さんとか野村修さんとか片岡啓治さんとかそういう人たちが集まって研究室にいて、一回、偶然にまぎれこんじゃって、大学ってすごいむずかしいことをやってるなあと思ったら、フリッツ・ラングの『M』っていう映画の話をしていたんですけど(笑)。それは特殊な人たちの集まりで、別に立正大学でそんな授業があったわけではなくて、特別に学生運動がさかんだったわけでもないんですよね。特に仏教学部っていうのはほとんど日本を守る会の前身みたいなもので、右寄りというか運動部系というか拳法とかも強かったし、活動をしていたのは社研とか新聞部ぐらいじゃないですか。僕は大学に入った時に学生新聞に大学祭の懸賞論文を書いたんで、赤い坊さんだって社研の人に言われたりして、勧誘されたんですけど、その時は、いや、僕はアングラなんで、そっちのほうっはっていう感じで断ったんですけどね(笑)。大学闘争の時に、仏教系の大学ってほとんどそういう運動が起きなくて、浄土系は龍谷大学の全共闘があったり柏木隆法さんがいた花園大学とかほとんど真宗系と禅系の大学は全共闘があったぐらいで、仏教系の大学の学生運動って取り上げられたことってほとんどなかったんですよね。だから梅原さんとか丸山さんの本を読むとちょっと出てきますけど、全面的に六八年の学生運動の中で宗教系の大学がどういう取り組みをしたかというのを整理して取り上げたものってないんですよ。そういう問題にふれていた人たちが作ったのが「公害企業主呪殺祈祷僧団」だったんですね。

──ああ、それが最初になるんですね。

上杉 で、松下隆洪さんは真言宗の東寺派ですけど、彼は高野山大学で学生運動をやっていた人なんです。でも誰かがちゃんとまとめておかなければいけないと思ってはいたんですけどね。その問題は「1968年の思想と立正安国」では僕も拾ってないですけどね。そういう気持ちもありました。

 

花田清輝が好きだったので、

東中野の新日本文学会の文学学校に通い始める

 

伊達 それで、また戻るんですけど、六七年に発見の会の研究生として芝居の準備をしていたというじゃないですか。そして10・8が終わった時に「何処か彼方処かはたまた何処か」をやるじゃないですか。あれは十一月のはじめだったと思うんですけど。

上杉 十一月十日ですね。この時は一日だけやったんですよね。

伊達 実は、俺、どう考えても、この芝居を見てるんだよね。高校は仙台だったんだけれども、両親が転勤で川口にいて、二年の時たまたま試験休みで帰省して。新宿に出た時にチラシを見て、千駄ヶ谷に行って、なんだ、これは、アングラってこういうもんなのかって思ったことだけを記憶しているんですよ。でも、一体、なにをやっているのかさっぱりわかんなかった。

── ええ、伊達さん、すごいね。その芝居を見に行ってるんですか!

上杉 当時のことをふり返ってみると、六四年に大学に入ったんですけど、六六年、僕が二十歳の時ですけど、明治通り沿いに住んでいたんですよね。戦争で焼けなかった親戚の洗濯屋の二階なんですけど、向かいが戸山ハイツだったんですよ。その時に唐十郎さんの状況劇場の「腰巻お仙・百個の恥丘」を偶然、見てるんですよ。

伊達 ええ! そうなんですか。

上杉 それは野外劇で、ほんとうにたまたま戸山ハイツに散歩に行った時に、ヘンなことをやってる。東京はやっぱり変なことをするひとがいるんだなと。僕はそれまで芝居ってみたことがなかったんですね。だからそれが初めての観劇体験だったんですね。その後、私はもともと高校の頃から花田清輝が好きだったんで、花田清輝の顔を見たいということから、東中野にあった新日本文学会が主宰する文学学校に通っていたんです。ちょうど唐さんの芝居を見た後に、文学学校の機関誌が発行されていて、私の先生が武井昭夫さんだったんですよ。

──ああ、あの全学連初代委員長の武井昭夫ですか。

上杉 それで武井さんが、これを観ろ、あれを読めっていうのがあって、それでけっこうプロレタリア文学も読みました。そんなことがあったりして、偶然観た唐さんの芝居じゃなくて、ちゃんと観たのは早稲田小劇場の別役実さんの『マッチ売りの少女』ぐらいで、あとは芝居って全然見てなくて、内田栄一という人の『ゴキブリの作り方』を花田清輝が「日本のポップコメディの傑作」とほめていたのを知っていましたんで、それで内田さんの『流れ者の美学』の公演があるっていうんで、信濃町の千日谷公会堂に観に行きましてね。その時まで、発見の会の芝居を見たことはなかったんですね。そしてその後、私が下宿を出て、新宿の寺にごやっかいになることになりまして。その時にちょうど寺山修司さんの本を読んでたりしてて、寺山さんが「失われた都市のコミュニケーションを回復するには、深夜のいたずら電話、無言電話、間違い電話が有効な手段である」なんて書いていたんで、酔っ払って、夜中の一時とか二時に電話したんですよ。そしたらご本人が出て、「今、何時だと思っている」っていうから、「いや、あなたがこういうことを書いてるでしょう」って言ったら、「じゃあ、昼間に話そう」ってなって(笑)。当時は、天井桟敷の旗揚げ前だったんですけど、祐天寺の寺山さんの家まで行ったんですよ。それで六七年の一月に天井桟敷が結成されるんですが、二か月後の三月に入るんですよ。で、四月に最初の芝居『青森県のせむし男』を草月会館ホールでやったんですけど、その時に僕はもうやめたんですね。寺山さんは今でも面白いと思うんですけど、周りにいる人たちが全然面白くないっていうのがあって、それで、その年の七月に発見の会が研究生を募集しているというんで、入るんです。だから研究生になったのが六七年なんですね。それまでに芝居は四、五本しか見ていないんです。研究生になってすぐ、七月に文学学校でよく知っていた小沢信男さんの『当世書生気質』という金玉時計の話ですけど、それを観に行って、その後に、八月に唐さんの状況劇場の『腰巻お仙・義理人情いろはにほへと篇』を新宿花園神社紅テントで、十月には今野勉さんの『一宿一飯』を観てますから、やはり六七年ですね。でもあんまり芝居は観てないですね。自分がやる側の人間になっちゃったから。

伊達 その間、ずっと発見の会にいたんですか。

上杉 そうですね。でも発見の会に入ったのが六七年の七月でしょ。僕、次の年の十二月にはもうやめていますからね。

 

二十六歳で住職になり、天象儀館の荒戸源次郎、

そして憧れの平岡正明と出会う

 

──わりとあんまり長続きしないんですか。

上杉 いや、そうじゃなくてね。六八年は政治の季節なんで、研究生の中でいろんなセクト間の理論を持ち込んだりしていたんですよ。ヘンな話ですけど、発見の会の瓜生良介さんという人は花田清輝の芝居を演出したりしてたし、内田栄一さんは安部公房の弟子だったりして、新日文的なものは僕は好きだったんですけれど、吉本隆明、埴谷雄高一派はそういうの嫌いなんですよね。そういう当時の風潮のようなものが劇団の中に持ち込まれて議論をする。それで入った研究生がほとんどそういう議論の末にやめちゃったんです。で、私は花田派で瓜生さんも花田派で、その頃はホンも書いたりいろいろしていたんですが、「いずれ、対決のその日まで」なんて手紙を書いて、一緒に入った人たちとやめたんです。

そのやめる直前に江古田の日大芸術学部のキャンパスで一日だけ僕の芝居をやったんです。日大全共闘支援として「娯楽がないからやってくれ」って言われて、「バリケードは娯楽じゃないのか」って言ったんだけど、「違う」って(笑)。それで発見の会をやめたんだけど、瓜生良介さんから二年ぐらいして旅公演するから何か書いてくれよっていうんで、いいですよって、これは竹中労さんがプロデュースしてくれて、やったんですよこれが一九七〇年六月の『紅のアリス兇状旅第一部・怨霊血染めの十字架』ですね。それから七一年の一月から九か月ぐらい、バイカル号からシベリア鉄道でバルセロナのほうに旅行に行っていまして。帰ってきたら、これはけっこう僕の中のエポックなんですけど、七月三十日、ちょうど羽田空港に着いた日に、雫石で自衛隊の飛行機と遺族会の全日空機が衝突して一六二人が死んだ時に、うちの檀家が十一人死んだんですよ。九か月ぐらい行方不明になっていたんですけど、帰ってきてうちの檀家さんの葬式を手伝うということになって、なんとなく九か月いなかったことがうやむやになった感じで(笑)。それで寺の仕事をそのままずるずると手伝っていたんですけど、二十六ぐらいの時に、発見の会とは別に、後にシネマプラセットをつくった荒戸源次郎君が主宰する天象儀館という劇団と出会いましてね。そこで本を書くことになったんですけど、私の師匠がその年に亡くなって、私が後を継がなくてはいけなくなり、二十六歳で住職になったんですよ。それでずっといままでやっていますから、もう四十何年も住職をしているわけですけど、それで天象儀館と知り合って、僕の最初の芝居をやってるときに、住職の法燈継承式というのをやってたんですね。

それで次に私にとっての重要なのは、伊達さんもそうでしょうけど、一九七三年に、平岡正明さんと出会ったことですね。ほとんど冗談のようなんですが、平岡さんとは発見の会で音楽をずっとやってくださっていた杉田一夫さんが同い年なんですね。それで杉田さんが自分たちの世代のヒーローが二人いて、『韃靼人宣言』を書いた平岡正明と丸山健二という小説家がいるんだよという話をしていたんです。平岡さんの本はいろいろ読んでいて、面識はまったくなかったんですけど、七三年に『月刊ペン』という雑誌で天象儀館の連載ページをもらったんで、平岡さんにラブレターを書いたんですね。それを平岡さんが読まれて、ちょうどその頃、大和屋竺さんが天象儀館が製作する映画を撮られることになって、『朝日のようにさわやかに』という映画だったんですけど、実際には封切りの際は『愛欲の罠』というタイトルでかかったんですね。

それの完成披露試写会を朝日生命ホールでやったんですよ。六月二十九日でしたかが、この時に平岡正明さんに来ていただいて、私は憧れの平岡さんがいらっしゃったんで、なんてご挨拶しようかなと思って、「革命はいつやるんですか?」って聞いたら、「うん。電話するから」って(笑)。それから勝手にですけど、平岡さんと一気に親しくなったんですね。

伊達 では、その平岡正明さん、荒戸源次郎さんとの出会いについては、次号でじっくりうかがうことにしましょう。

 

 

【連載】ラジカルチャー入門講座 第31回 (ホスト・伊達政保)

呪殺・アングラ・68年の思想

ゲスト・上杉清文(僧侶・劇作家・福神研究所所長) PartⅡ

構成/高崎俊夫

 

1975年まで荒戸源次郎の天象儀館との

つきあいが続いた

伊達 前回は平岡さんとの出会いについて話してもらいましたが、平岡さんとはその後、急速に親しくなるわけですね。

上杉 一九七三年の六月二十九日、荒戸源次郎さんが主宰する天象儀館が製作した大和家竺さんの『朝日のようにさわやかに』(公開題名『愛欲の罠』)の完成披露試写会で平岡さんに初めて会ったんです。それからその年の十二月に『食卓の騎士』っていう芝居をやった時に、平岡さんにチラシに「見てないけど、オレは組むぜ」っていう文章を書いてもらったんですよ。翌年の七四年の五月には平岡さんの『西郷隆盛における永久革命─あねさん待ちまちルサンチマン』にオマージュを捧げた『思國貴種流離譚大西郷不帰行』という芝居と、十、十一月には『笑い猫』という二本の芝居を後楽園スタジアムの入り口でやっていたんですけど、そのうちの一本は大和屋さんと平岡さんにも出てもらったんです。そんなふうに天象儀館とつきあいがずっと続いていたんですけど、七六年に、三十ぐらいになった時に、僕は奧成達さんが好きだったんですけど、奥成さんが末井昭さんのやっている雑誌で「冷やし中華思想の研究」の連載をはじめたんですね。

伊達 末井さんが白夜書房の前身のセルフ出版で出していた『月刊ニューセルフ』という雑誌でしたね。

上杉 そうそう。伊達さんも「冷やし中華愛好会・神奈川県委員長」の過激派という立場で同じ雑誌に書いていた。その頃から芝居よりも「全日本冷やし中華愛好会」のほうが面白いかなと思うようになっていましたね。坂田明さんのハナモゲラ語とかが出てきた時で、二年ぐらいは「全冷中」をやっていた。だから、七七年頃は、芝居の方も改訂版ばかりで新しいものは書かなかったですね。そうこうしていたら、瓜生良介さんから「活動を停止していた発見の会が再開するから、上杉、なんか書け」って言われて『不純異星交遊』という芝居を書いたんです。これは伊達さんもご覧になっていますよね。

伊達 あれは一九七八年だよね。場所は四谷公会堂だった。その後は、上杉さんはいろんな劇団から声がかかれば、本を書いたりするようになったんですね。僕は、その頃は、ミクロネシア独立闘争に発展していって、ミクロネシアに行っていた。だから、平岡さんが出演している天象儀館の芝居は全然見ていないんです。ただ、天象儀館とはつきあいがあって、あの頃は僕が一時住んでいた、布川徹郎の母親が持っていた稲村ヶ崎の邸宅や天象儀館の事務所で大宴会をやっていて、よく行きましたよ。でも、そうこうしているうちに天象儀館の荒戸源次郎さんと平岡さんの関係がおかしくなってきちゃった。

上杉 そうですね。七四年の年末ぐらいですか。平岡さんが「天象儀館と決別する」という文章を発表されて、それで天象儀館とはご縁がなくなったんですよ。でも、僕は七八年ぐらいまでは天象儀館といっしょにやっていました。

伊達 僕はミクロネシアから帰ってきてから、一年浪人して、中央区役所に勤めたんだけど、近くの銀座に奧成達さんのTBデザイン研究所があったんですよ。そして平岡さんんたちと話して全日本冷やし中華愛好会・神奈川県委員会をつくろうじゃないかということで始まって、末井昭さんの雑誌で連載を載っけようという話になったんです。それで「全冷中」がワーッと広まっていったんですね。

上杉 「全冷中」が結成されたのが七六年ですね。

伊達 筒井康隆さん、山下洋輔さん、平岡正明さんをはじめとして、そうそうたるメンバーですよね。

上杉 この時、平岡さんが四十四歳で僕が三十九歳ぐらいだと思うんですけどね。

伊達 もうひとつは、荒戸源次郎がある時期からシネマ・プラセットの映画プロデューサー、あるいは映画監督としての自分をアピールするようになったでしょう。そうして、まるで天象儀館の時代を封印しちゃったように、あまり語らなくなったじゃないですか。だからその期間の歴史がなくなっちゃったんですよね。

上杉 僕は一九七八年に『不純異星交遊』を発見の会のために書いてから、天象儀館とは没交渉なんですね。結局、七八年というのは僕も荒戸さんも同い年なんで三十二ぐらいの時ですけど、道玄坂で芝居をしたのが天象儀館の最後だと思うんです。それから天象儀館としては演劇はやってないですよ。ただ、その後、荒戸さんはすぐに映画に行ったわけではないから。その間、潜伏というか荒戸さんの中でもいろいろ試行錯誤があって、『ツィゴイネルワイゼン』のプロデューサーとして出てくるのが八〇年ですよね。荒戸さんが亡くなったから、そういうことを誰も言う人がいないので、僕が言いますけど、もともと七二年、なぜか僕の誕生日の日に荒戸さんから電話があったんですよ。逗子の矢野真さんという澁澤龍彦さんの妹さんの旦那さん、発見の会で美術をやっていた人ですが、矢野さんの家から、たとえばビショップ山田さんとかいろんな友達が電話してきたんですよ。

伊達 ああ、あの矢野さんですか。

上杉 で、最後に、「荒戸と申しますが、実は、お会いしたいんですけど」という話になって、ああ、いいですよとなったんですけど、もう、その時には秋山道男君も作曲家の杉田一夫さんも荒戸さんと知り合いだったんですよ。それで南馬込の彼の家に行ったら、秋山道男は若松プロのはぐれ者で、上杉は発見の会のはぐれ者で、荒戸源次郎は状況劇場のはぐれ者だっていうふうな話になって、でも荒戸さんは発見の会の芝居を観たことないし、僕は状況劇場の芝居は観ているけど、荒戸さんが出ていることのは観てない。だからあんまり芝居の話をしてもしょうがないし、それで映画の話をしていた、もちろん鈴木清順さんの話も出たけど、大和屋竺さんの映画が面白いよっていう話、『荒野のダッチワイフ』や『毛の生えた拳銃』が好きだっていう話になりましてね。それで、そういえば七〇年に、ちょうど三島由紀夫さんが死んだ年ですけど、大和屋さんが僕の芝居の劇評を書いてくれたことがあったんですよ。三島由紀夫が亡くなって、アングラはどうするんだみたいなことを書いてもらったことがあって、面識はなかったんだけどお会いしたいと、手紙を書いたことがあったんですよ。大和屋さんは日野に住んでいらっしゃって、天象儀館の人たちは国立にいたんで、国立劇場って僕らは呼んでいたんですが(笑)、それで一応タキシードを借りて、胸にパセリをさして、国立パセリ団ってわけのわかんない名前を付けて(笑)、家に行ったら、大和屋さんはオルガンでバッハを弾いて待っているんですよ。

伊達 へええ、それはカッコいいですね。

上杉 その時はまだ天象儀館にホンを書く前ですからね。荒戸さんは、その頃は芝居のショーケースみたいな『白雪姫─天象儀白夜篇』をやってて、その中で歌ったり踊ったりやっていたんです。それを観たんで僕もホンを書く気になったんですけど、それで大和屋さんは、あなた方はなにをしているのか見たいと言ったんですね。それで、じゃあって言って、大和屋さんの家の庭にドームを建てたんですよ。

伊達 ほおお、それはすごい。

上杉 そして一五分か二〇分ぐらいなんかやりますって言ったら、大和屋さんが一人で見るのはもったいないから知り合いに声をかけるって言って、田中陽造さんとか河内紀さんとか曽根中生さんとか日活の鈴木清順共闘会議みたいな人たちがみんな来ちゃって感激してね。で、終わったら、もう映画の話になっちゃって、すぐにその時に、大和屋さんの映画を撮る前に鈴木清順さんの映画を撮る話になっていたんですよ。

伊達 へええ、そうなんだ。

上杉 大和屋さんの『朝日のようにさわやかに』って鈴木清順さんの『殺しの烙印』の続篇のホンをそのまま使って撮ったんですよ。で、鈴木清順組のライターはみんなヒマで、替わりばんこにみんな書いているから、もうホンがいっぱいあるわけですよ(笑)。『夢殿』とかタイトルのホンもありましたよね。それで、鈴木さんの映画を作りたいっていう話になったんだけど、とりあえずは大和屋さんの映画を撮ろうかという話になって、できたのが『朝日のようにさわやかに』なんですね。そして二本目に秋山道男君の映画を撮ることになって、僕がホンを書いたんだけど、それは『十代の性書・白雪姫』というロマンポルノみたいなホンで、それは後に毛皮族がリーディングで上演してくれたんで、無駄にならなかったんですけど(笑)。それから六年ぐらいの間、荒戸さんの中では映画をやりたいって気持ちはあったんだけど、どこでどういうきっかけでそこに一気にいくか。芝居とはお金のケタが違うしね。鈴木清順さんの映画をつくるっていうのも最初からの約束であったから、僕らがホンを書いて芝居を始めていると、鈴木組の人たちが芝居を観に来るわけじゃないですか。だから天象儀館というのは、いわゆる芝居・劇団関係者ってほとんど観に来なかった劇団なのね(笑)。映画の人とか、物書きしか見に来ない。だから、発見の会や斉藤晴彦さんが黒テントの連中を連れてきたことはあったけど、芝居関係者とは付き合いがなかったですね。ただ、僕は自分の台本の時には牧口元美さんとか飯田孝男さんに出てもらっていた。天象儀館って女の人の劇団だから。

伊達 江の島るびさんとかね。

上杉 女性主力の劇団なんで、男優はなるべく違うところから出てもらったりしていたんですけど、荒戸さんも状況劇場にいたから、唐さんと同じ形ではやりたくないというふうに考えていただろうし、劇団同士で行ったりきたり、切符を売ったり買ったりはあんまりやりたくなかったんじゃないかな。ただ、外側の噂話では天象儀館は、なんであんなに打ち上げが豪華なんだとかね。あの金はどっから出ているんだとかね(笑)。僕の友達はみんな打ち上げが好きで、打ち上げに来ると、今まで劇中で歌った歌が五十曲ぐらいあって、それをまた酒を飲んでる前でやるわけですよ。

伊達 打ち上げでも、女優さんたちが歌ったり踊ったりするわけだものね。

上杉 そう。目の前で酒飲んでいてね。だからそのセットだけでやったこともあるんで于書。四谷のPLビルで歌と踊りだけでやったこともあるんです。その時は浅川マキさんも観に来てくれて、一緒に歌ってくれたりしてね。それで、これも笑い話ですけど、亡くなっちゃった渡辺和博君、『金魂巻』の。ナベゾが宴会が好きで、「天象儀館の宴会は最高だよね」って言ってましたね。「そうだよな、これで芝居をやらなきゃなあ」と僕が言ったら、劇団員が「それはひどい」って(笑)。

伊達 あはは(笑)。

上杉 それぐらい宴会が好きな人が多かった。天象儀館を観に来ていた人のなかで、後で聞くと、いかに宴会が楽しかったかという記憶がものすごくあるっていうんですね。

伊達 僕はその頃、日本にいなかったんで、芝居は観られなかったんだけど、忘年会とか大宴会をやったのはよく憶えていますよ。

上杉 餅をついたり、いろいろやっていたんですよね。そういうのがあって、荒戸さんに関しては、いつから映画に踏み切ったのかを、いろいろ聞いてみたいんだけど、あんまり細かく知っている人がいないんだよね。天象儀館の最後の方につきあっていた人たちは、映画について知っている人はいるけどね。いつ状況劇場を辞めて、自分の劇団を始めたのか。僕は一九六九年ぐらいだと思っているんだけど。あの頃、渋谷で天井桟敷と状況劇場が乱闘事件を起こしたことがあったでしょ。あの時に荒戸さんは捕まっているからね。

伊達 ああ、そうなの。あの有名な初日に天井桟敷から葬式用の黒い花輪を送ったとかで大乱闘になった事件ですね。

上杉 あの時には荒戸さんは間違いなく状況劇場にいたんですね。あの後、やめたんだと思う。流山児祥さんとか山崎哲さんとかみんないっしょだから。荒戸さんの生まれ故郷は長崎の五島列島ってことになっているけど、僕は福岡だと思っていて、博多の東公園で状況劇場は、芝居やっているからね。

伊達 上杉さんは巻上公一さんや南伸坊さんと「総合商社ハンジョー」それと高級藝術協会というのを始めるじゃないですか。あれはなんで始めたんですか。

上杉 『ウィークエンドスーパー』で平岡正明さんと「差別対談」を始めた時に、編集長の末井昭さんが「全冷中」があるから知ってるんだけど、南伸坊さんや友達は平岡さんの本を読んだことがないわけですよ。傾向が違うから。それで『映画批評』で平岡さんが吉本隆明を批判した〈 共同幻想〉ってあったでしょ。あれをコピーして渡したんですよ。そしたら、面白い人だね、こういう人もいるんだと、みんな平岡さんが好きになったんですよ(笑)。それで「差別対談」をやっているうちに、同じ世代だしみんなでなんかやろうかという話になって、僕がいい加減に、これからは総合商社の時代だなんて言って、糸井重里さんに「ハンジョー」という名前をつけてもらったんです。そしたら平岡さんが「帝国主義の犬が命名した」って笑っていた(笑)。それで全然、楽器もできないのに、楽器を買ってハンジョー・オールスターズっていうバンドもつくったんだけど、結局、アンドレ・ブルトンとかシュールレアリスムとかダダイズムとかああいうものが僕は好きなんだね。だから呪殺祈祷僧団もシュールレアリスムの運動っぽい感じがあるんだよね。それで次に高級藝術協会をつくり、『高級藝術宣言』という本を一冊とレコードを出してね。実際に演奏するときはヒカシューとか音楽ができる人たちがいたんで、ぎりぎり成立するみたいなことがありましたけどね。だから呪殺祈祷僧団、JKS47は僕にとっては久しぶりですね。ハンジョーとか高級藝術協会の次に来たのはJKS47だっていう(笑)。わりとそういう違ったジャンルの人たちと出会って、仕掛けをするのが好きなのかも知れないという気がします

伊達 ハンジョー・オールスターズではみんなでサックスを買って演奏してましたけど、そのサックスをずーっとやり続けているのは末井昭さんだけですから。

──ああ、末井さんのサックスっていうのはそこからなんですか。

上杉 そうなんですよ。ある日、突然、僕が楽器屋に行こうって言って、みんなで行って、それで「今、現金はないけど、一人、ひとつづつ買え」って(笑)で、楽器を持ったらライブをしなきゃということになって、無謀なことに、神戸の兵庫県立近代美術館のオープニング、こけら落としに出たんですよ。なんなんだろう、あの時代は、ふざけてるっていうのがまだ通用したのかな。

伊達 冗談っていうのがきっちり、まだ通用できたんだね。

上杉 そうそう。南伸坊さんがライブの時に、アルト・サックスを持ったまま、「まあ、このぉ」って例の田中角栄のマネをしてついに吹かなかったわけですよね。あとで、山下洋輔さんたちと話していたら、坂田明さんが「南は吹かなかった。俺は負けた」って(笑)。そういうのを面白がってくれた人がいたんですね。

伊達 ほんとうにそうですね。

 

シュールレアリスムやダダイズム、

そういう言葉の遊びが一番好き

 

上杉 で、最初の話に戻ると、やっぱり今回の呪殺祈祷僧団、JKS47はちょっと違うのかなと。面白がっている人がいなくもないけど。どうですかね。

伊達 いや、面白いし、マジメだし、冗談でもあるし、それが全部いっしょに入っているじゃないですか。政治的主張としては絶対に正しいしね。

上杉 結局、演劇みたいなものが僕は好きなんでしょうね。やっぱりシュールレアリスム運動が一番好きなのかな。

伊達 やはり場ですよね。その場で起こる出来事ですよね。

上杉 だって伊達さんもバリバリにいわゆる運動をやっていたじゃないですか。でもやっぱり違いますよね。そういう運動と、僕らのやっていることとは。

伊達 同じですよ。場のエネルギーをどういうふうに成立させるかっていうのは、運動だってそうだし。だから演劇だろうが音楽だろうがみんな場じゃないですか。その場に行かないとなにも始まらない。運動だってそうだよね会議やったって運動にはならないんだから(笑)。場がないと話にならないから。

上杉 そうですよね。言葉っていうのは仕込みに時間がかかったりすすじゃないですか。で、音はバッと出したり、画がかけたり、足が速かったり、力が強かったりっていうのはわかりやすいじゃないですか。そういうものに対するあこがれみたいなものがあるんですけど、なかなかそれが自分ではできないんですよ。コンセプト、観念ですね。そっちのほうにいってああでもない、こうでもないって考えてそれが形になればいいんですけどね。たぶん、形にならなくても妄想のようなことを考えているしね。そういう意味ではやはり平岡さんなんかは僕の中ではすごく大きな存在ですね。それこそ向井徹クンが言う「東洋のシュールレアリスト・平岡正明」だと。松山俊太郎先生にも十三年間つきあっていただいて、シュールレアリスムのことを聞いたときに、「日本でシュールレアリストは土方巽しかいない」とおっしゃっていましたね。「じゃあ平岡さんは東洋のシュールレアリストと言われていますが、平岡さんはどうですか」って聞いたら、「うーん、彼もそうとう変わっているな」って言っていましたけど(笑)。

伊達 あははは(笑)。それは面白いですね。

上杉 僕は自分が言葉の人間だと思っているんですね。もともとの話をすると、最初に、高校の時にはビートルズと山田風太郎が好きで、ちょっと遅れて花田清輝が好きになるんですけど、小説はあまり読んでなかった。ただ、歌謡曲が好きでしたね。僕は北原白秋の訳した「マザーグース」がものすごく好きで、長編の世界の名作とかは体力的に読み切れそうにないので、短いマイナーポエットみたいな吉行淳之介とか梶井基次郎とか牧野信一とかを読んでましたね。まだ十代ですから、青春でしたから。吉行さんは西条八十とか北原白秋が訳した童謡を使った小説を書かれているんですね。で、実際に「マザーグース」の英語の歌詞に出会ったのが、ビートルズなんですよ。ビートルズの歌には「マザーグース」や「不思議の国のアリス」の一節が歌詞の中に出てくる。まあイギリスの人にとっては不思議なことじゃないですけど、言葉遊びでつながっている。それで、ちょうど井上ひさしさんがもっと前に同じ問題をやっていたんでしょうけど。発見の会の劇団事務所があった千日谷会堂には住職だった大正大学の朝鮮仏教の先生の書庫があって、蔵書に帝国文庫とか昔の本があったんで、あまり大きな声じゃ言えないんですけど、そこからいただいたりしてきて(笑)。蔵書印が押してある本が何冊かあるんですけど、狂歌とか狂文とかようするに江戸の戯作ですね。言葉遊びに初めて出会って、それに自分がフィットしたんですね。だからヨーロッパのシュールレアリスムやダダイズムにしても、そういう言葉の遊びみたいなものが一番好きですね。

僕がちょうど大学受験の時に小林秀雄の『考えるヒント』が出た頃で、主張としては起承転結がはっきりしている。でも花田清輝さんの文章というのは、歌舞伎とおんなじで、起承転結の結がないんで、起承転……で、また、後日よろしくみたいな感じですよね(笑)。そういう、ちゃんとした結論を期待する読者が怒るような、なんだよ、結局なんなんだみたいな文章で、それが僕の中では現代思想的に言うと結論を「宙吊り」にするみたいな、すごく快感なんです。山田風太郎さんの場合は完全なフィクションだけど、ちゃんと最後まで結構(??結論??)ができているじゃないですか。なんかのインタビューで読んだんですけど、山田風太郎さんが「『大菩薩峠』のような未完の伝奇小説がありますけど、先生はどう思われますか」って聞かれて「いやあ、終わりまで書いてない小説は読まない。だって終わってないのをわかっていて読んでもしょうがない」って答えていて(笑)。なるほどなあと思ったんですよ。僕はそういう山田風太郎さんの頭の中でできあがっている巨大な妄想のような世界も好きだけど、そういうやり方と、平岡さんも花田さんもそうだと思うけど、精神の運動っていうか、一寸先は闇で、わたし自身もじつはどこにいくかわかんない、みたいな文章って気持ちがいいんですよ。

 

七〇歳になったので、

目標は鶴屋南北と長谷川伸である

 

伊達 九〇年代に入ってから、上杉さんが書いている『明治嵐が丘』『明治魔の山』とかの明治シリースがあるじゃないですか。ほんとうは『明治赤と黒』の三部作で完結するって言っていて、なかなか完結しないんだけど、あれはなんか山田さんの『警視庁草紙』とかの〈明治もの〉の影響下で書かれているんでしょ。

上杉 僕は最初からそうですね。一番最初に書いた芝居も山田風太郎さんの作品をどっかで意識しているけど、〈明治もの〉に関してはっきり本歌取りというか風太郎さんがやった世界で風太郎さんが書かなかったことだけを書こうと自分で決めました。そして風太郎さんの小説みたいに、一人だけ架空の人物を入れて、あとは史実、歴史上の人物だけで構成する。井上ひさしさんもそうやって書いているんでしょうけど、年表をつくって横に並べて組み立ててパズルみたいにしてつくっていく。そのやり方が自分のなかでは向いているのかなと思っていますね。

伊達 だから、僕なんかが憶えているのは、発見の会じゃなくて、『富士見病院でどうもすみません』とかああいった形で、ギャクでみせる芝居がありましたね。

上杉 あれは『奇譚パノラマ病院でどーもすみません』っていう芝居で、江戸川乱歩の『パノラマ島奇譚』を下敷きにして、忠臣蔵と2・26をごちゃまぜにしています。子どもの頃から歴史ドラマとして忠臣蔵と2・26が好きなんですよ。だから芝居を書くときに、結局、そこに持って行くための作り込みみたいなことを必ずしていますね。それと、僕は、もう七〇歳になったんで、目標は鶴屋南北のほかに長谷川伸ですね。自分ではアングラの影響ってほとんどないと思うんです。ただ、今となって唐さんの本を読み直していますけど、やっぱりアングラの演劇って唐十郎につきるんじゃないかと思いますね。

伊達 アングラ自体が鶴屋南北と長谷川伸の影響下にあったんじゃないですか。

上杉 そうですね。南北は一時期、ブームになりましたけどね。

── アングラ演劇でいえば、内田栄一さんは新日本文学会をやっていたから、自分のポジションがあったということはあるでしょうね。

上杉 内田さんは『空飛ぶ表具師』を書くでしょ。あれを演出したのは瓜生良介さんなんですね。その時に、瓜生さんに聞いた話だと、内田さんの師匠の安部公房さんが心配で、しょっちゅう見に来るんですって。それでうるさいから、「うるさいから、お前、出てけ。お前が書いたんじゃない」ってよく喧嘩してたって(笑)。瓜生さんもまだ三十前だと思うんだけど。もちろん、瓜生さんが舞芸座から分かれて発見の会を作るときに、発見の会を支えた劇作家グループってすごいですよ。安部公房とかみんな入っている。もちろん上演したのは広末保の『新版(うらおもて) 四谷怪談』とか深沢七郎さんの『かげろう囃子』とかいくつかあるけど、書かなかった新日文系の作家が膨大にいて、一番若手だったのが多分、内田栄一さんですね。僕が新日文の文学学校に行っていた頃は武井昭夫さんがいて、武井さんは偉い人だったから、実際に菅原克己さんという詩人がお父さんのように、ああしろ、こううしろと教えてくれたんですね。文学学校ではたまに岡本太郎と安部公房と花田清輝の三人が話をすることがありましたね。花田さんは、僕は一回だけ「ディズニーと北斎漫画」についての講義を聞いたことがありましたね。滝口修造の『北斎』論とかいろいろ引用しながら、「北斎漫画」の話をしていたんですね。で、僕の友達が質問したら、「君は北斎漫画をみたことがあるのか」って聞かれたんで、「いいえ」って答えたら、「話にならん」って言われたんで、上から目線の花田清輝って感じで、そういうのもあるんだなあって思ったんですが(笑)。

── 今、新宿で福神研究所の公開講座をされているそうですね。

上杉 ええ。創価大学の菅野博史先生をお招きして、公開講座として「摩訶止観講義」を新宿の常円寺でやっています。中国天台が日本に来て、その流れが日蓮聖人なので、日蓮聖人が読んだであろう重要な法華三大部の一つである摩訶止観を岩波文庫で出ているのをテキストにして、菅野先生に一字一句解説してもらっているんです。一応、六年間の予定でやっているんですが、多分、終わらないと思いますね。松山俊太郎先生が十三年やりまして、法華経って二十八章まであるんですけど、結局二章まで。十三年間で二章ってすごいでしょ。松山先生は新しい発見があると最初に戻るんですよ。だから、全然、前に進まないんです。徹底的にやるとほとんど進まないんだな(笑)。それは面白かったですね。── 法華経の奥義というのはそうとうに難しいという感じですね。

上杉 松山先生は新しいことが見つかると仮説を組み立てるわけですね。その当時のサンスクリットの原本なんてもう存在していないわけですよね。で、想像してみる。仮説の上に仮説を積み重ねながら、組み立てていくときに、ひとつでも仮説がくずれると、松山先生は最初から見直すんですよ。これがものすごいんですよ。ふつうは一つぐらいならいいいか、となるんだけど、ダメなんですよ。竹内健さんという僕の中でもう一人重要な方がいて、竹内さんはアルフレッド・ジャリの『ユビュ王』(現代思潮社)を訳したフランス文学者で、四十代で筆を折って、古代信仰の研究者となり、八十歳で亡くなって、ちょうど十二月の二十三日が一周忌だったんです。竹内さんもやはり仮説を積み重ねていく方で、そういう緻密な感じがすごく似ているなあと思います。

伊達 なるほどねえ。

上杉 伊達さんみたいに音楽もわかる人は、僕が芝居でちょっとそういう試みをして、昔のテキストをパッチワークして、その時に流れていた音もパッチワークして、後から曲がカバーされてもっといい演奏があるのに、そういうのを使わないで、あえて入れたのに、でも、観に来ていた人で、そういうことがわかった人ってほとんどいないんですよね。僕が何をしようとしていたかっていうのをね。松山先生は、僕の芝居を観に来て、いろんな登場人物が出てきた時に、この人たちを自分の頭の中で組み立ててみると、全然、別のドラマがつくれるっていうんです。唐さんの芝居ではそういうことはない。唐さんの場合はロマンティシズムとかリリシズムとかいろんなものによってダイナミックな世界ができあがるわけですよね。でも僕の場合は組み立てみたいなものに関心がある。たとえば、僕が書いた『紅のアリス兇状旅「怨霊血染めの十字架」』でキリストがゴルゴダの丘に引かれるシーンを入れたわけです。そこで茨で鞭打たれるんですが。芝居が終わった後に、竹内健さんは、「よう、上杉、あそこは榊で打たなきゃだめなんだよ。日本は榊だよ」って言うんです(笑)。それが劇評なんですよね。松山先生の劇評がすごかったのは、自衛隊がサモアにいく『花田・アングラ・清輝 もう一つの修羅』の時に、外国人のキリシタン、アルメイダが芝居の中でラテン語を使うんですねよえ。当然、僕がラテン語ができないことは、先生は承知なわけですよ。それで、芝居をみて、「あの、ひとつだけ、活用形が間違ったところがあるんだけど」って言うんですよ。「それって、どういうことですか?」って聞いたら、「つまり、典拠はなに? 君がラテン語ができないのはわかっているけど、何を見てあれを書いたのか?」って聞くわけです。それで僕は「キリシタン語の研究者・新村出の『南蛮更紗』を読んでセリフを書いたんです」って言ったら、「新村は間違いが多いからなぁ」って、それで終わりですよ。(笑)。松山先生は何を見ているんだろう、松山先生を唸らせるにはどうしたらいいんだろうって思いましたね。

僕は劇評を頼まれたときには、基本的には悪口は書かないんですよ。芝居を見て、ここまでは面白かったけど、ここから先はつまんないとか。知恵比べみたいなことをするのはいやなんですね。だったら、自分で同じテーマでもっと面白い芝居を書けばいい。悪口だけ書くと、お互いに気分、悪いじゃないですか。だから、とにかく、最初から最後までほめるっていう劇評しか書けないんですよ。でも、竹内健さんとか松山先生に芝居のことを言われると、そういうことじゃなくて、いろんな劇評ってあるんだなって思うんですよしかも、僕の書いた芝居に出てくる登場人物について、役者に一時間ぐらい、あそこに出てきた人はこういう人でこういう活動をして、こうやって亡くなったということまでおしえてくれるんです。僕が適当にパッチワーク下ものの世界が広がるっていうのかな。これは、厳密にやると、百年ぐらい楽しめるぞなんて仰ったりしてね。芝居の効用って面白いなと思いますね。発見の会は上演から終わってもほとんど芝居の話をしないし、瓜生さんもなにも言わないで、「いいんじゃないの」って言うだけなんで。なにがいいんだかわかんないんですけど(笑)。しかし、今日は自分でもなんの話をしたのかよくわからないですけど。

伊達 いえいえ。だいぶ、いろいろ語り尽くしましたよ。結論はなしということで(笑)。今後も呪殺祈祷僧団による月例の祈祷会は続くでしょうから、頑張りましょう。