Skip to main content

久し振りにテレビに釘付けになった。いまに驚くことではないが、しかし言論封殺の末の、暴力が国政を制した場面を私は、この目でしかと見てしまったのだ。安保法案、参議院特別委員会(九月十七日)の茶番は許しがたい。ついに立法の府国会は、これまでにも増してアウトロー「ならず者」「ごろつき」集団の溜まり場となってしまった。国会議員の徽章を付けた自民党公明党のごろつき達は、委員長席を人垣で制するリハーサルを、繰り返していたという。ごろつき集団の陣地合戦勝利の結果、自衛隊海外派遣を可能にする安保法案は可決されたのである。稀代のペテン師阿部晋三が怖れたのは、やはり言論の力、世論であった。結果、締めくくり質疑さえも、封殺したのである。採決を急いだ理由を、NHKニュースの解説者は、大型連休にずれ込むと「不測の事態が予測される」からと、官邸が用意したコメントを繰り返していた。この男の顔も忘れないでおくこととする。

 

ふざけるな、公共放送NHKまでもが国民を愚弄するというのか。向かった先は国会であった。地下鉄「霞ヶ関」の階段を駆け上る。途中、集会から帰る若い知人と会った。
デモ隊用と歩行者用とに整然と区画された歩道。国会議事堂に向かう車道には装甲車がぎっしりと引き詰めている。この過剰な警戒態勢こそ、正常であるのだ。強行採決に憤然とした万余の群衆が押しかけてしかるべき歴史的一夜であるのはずであるのだから……。

 

すでにマッチも夜霧にしめり一本の頒かつ煙草のさらばわが友

 

太鼓のリズムにのって若者たちが叫ぶ軽快なコールに相変わらず馴染めないまま、私が過ごしたてきた青春という時代の、ある場面を思い起こしていた。

 

1

一九六五年六月、日韓基本条約が東京で調印され、アメリカの極東戦略体制は強化の方向をたどり、その立役者佐藤首相は、戦後初めての首相訪問と誇らかに沖縄を訪問したが、日本にデモ隊に包囲され米軍基地へ逃げ込んだ。佐藤栄作こそは、六〇年安保を強行採決した(A級戦犯)岸信介首相の弟であり、安倍晋三の大叔父である。
小田実、開高健らの呼びかけでベ平連(「べトナムに平和を!市民連合」)が発足したのもこの年であった。発起人に作家高橋和巳がいたことなどが忘れられない。ベ平連は、組合や政治団体に属さない市民一人一人の意志の結集をはかろうとしたのだ。学生であった私などは、甘っちょろいデモだと揶揄したものである。しかし、それが大切であったのだ。いま「シールズ」に集う若者たちを見てそう思う。日本原子力発電東海発電所が、営業用原子力発電を東京などに送電開始したのも日韓に揺れたこの年であった。そして十一月十二日、日韓基本条約が衆議院で異例の議長発議により、抜打ち可決されたのだ。
霧雨煙る夜であった。国会前での抗議集会を終え、やりきれない想いで早稲田鶴巻町のクラスメートの下宿先へ向かった。炬燵もストーブもない三畳の室で奴はラジオを聴いていた。レインコートから取り出した煙草までびっしょり濡れていた。やがて、奴は風呂敷に数冊の本を入れて出て行った。
質屋を叩き起こし、酒屋も叩き起こしたのであろう。風呂敷から、ウイスキー瓶(トリスエキストラ)とピー罐が躍り出た。日韓闘争敗北の夜を、私は底ごもる口惜しみを抱きながら、煙草を咥えウイスキーを呷った。ラジオからは、都はるみの「涙の連絡船」が流れていた。

 

「今夜も 汽笛が 汽笛が 汽笛が/暗い波間で 泣きじゃくる」
「忘れられない 私がばかね/連絡船の 着く港」

 

黙ってラジオを聴く友のかたえで、私は思う存分感傷に身を任せていた。

 

あれから五十年、その友人もすでにこの世にはいない。

 

2

それから私は、早大学費学館闘争を戦い、留年の後、坊主になったのであた。
一九六七年十月八日、京大生山崎博昭が輸送車に轢き殺さた第一次羽田闘争のニュースを、私は大阪枚方の学林の寮で聴いていた。ついにゲバルトの地平が拓かれたのである。しかし、夜を待って寮を抜け出し新聞を買い漁るしか私に連帯の手立てはなかった。第二次、佐藤訪米阻止闘争の夜は、梅田に向かった。早大闘争から発した学園闘争は全大学に及び全共闘が結成されていった。一九六九年秋安保決戦!

そして迎えた一九七〇年、巷には、いしだあゆみのハスキーな歌声が、これからの選択を問うように流れていた。「あなたならどうする/あなたならどうする」。戦後二十五年、戦いの遺産は食いつぶされていた。さあ、お前はこれからどう生きてゆくのだ。

 

秋は身に沁む川の流れさえしぶきに濡れてライラよ還れ

 

愛鷹山麓の小村で「七〇年代挽歌論」を発したのもあの頃であった。墓守人の日々が始まったのである。連合赤軍の粛清等、耳を塞ぎ目を覆いたくなような事件が相次いだ。
内ゲバ、そして爆弾闘争が囁かれていた。学生時代角を突き合わせた友人たちの何人かが陰惨な内ゲバや謀略機関の襲撃で命を落としていった。

 

「ロシア革命史」小脇に抱え肩でドア押し来る霧の彼方の友よ

 

3

死者は死んではいない。
山崎博昭も、高橋和巳も、小田実も、級友藤原隆義もみな日本の行く末を暗澹たる眼差しで凝視している。四十五年前の一九七〇年九月七日、梅原正紀、松下隆洪らの先師たちと「公害企業主呪殺祈祷僧団」を起ち上げた丸山照雄よ、そして「死者との共闘」を宣言した老歴史学者上原専録よ、あなた方の熱祈は、いまアウシュビッツ、アルジェリア、ソンミ村、関東大震災、南京事件、東京大空襲、広島長崎における「虐殺者」を被告人席に立たせた。

 

「呪殺」とは、呪い殺すの謂ではない。虐殺された死者たちの怨嗟をこめた「最後の言葉」に他ならない。彼らの痛苦を代弁する言葉、それが呪殺である。ならず者の手法をもって言論の府国会を汚辱した人非人安倍晋三よ、アメリカの戦費の肩代わりのために、日本の若者の命と血税と日本人の誇りを差し出した売国奴安倍晋三よ。
アメリカの尖兵、手先としてとして自衛隊員に無辜の民を殺させてはならない。自衛隊員に大義なき(自殺をもふくめた)戦死をさせてはならない。世界の人々の敵になってはならない。

 

八月二十七日、憲法順守原発撤廃を願う人々が集う経産省テント広場において、「呪殺祈祷僧団」再結成法会に参集したわれら僧俗は、戦災戦没・震災原発・公害・刑死殉難虐殺之諸精霊の真実の声を挺して、沖縄へ、川内原発へ呪殺祈祷の旅団を結集してゆくだろう。戦いは、始まったばかりではないか。

 

※十八日未明、小雨煙る国会前に佇み、抗議の人々に身を寄せながら私は、五十年前のことなどを思い起こそうとしていた。